はじめに──「独立したい。でも、何から始めたらいい?」大学卒業後、エンジニアとして社会に出た。幼少期から父が独立して働く姿を見てきた影響か、「いつか自分も」という気持ちは、ずっと心の奥にあった。3社を経験し、営業職にも転じ、家族もできた。生活は安定していたが、どこかに「このままで本当にいいのか?」という違和感が消えなかった。とはいえ、いざ独立を考えても、何ができるのかも、どう収益を立てるのかもまるで見えない。家庭がある中で、見切り発車は許されない状況だった。「独立したい。でも、方法がわからない」——そんな状態から抜け出すために、自分がどう動き、何を手がかりにしてきたのかをここに記しておきたい。1. 「このままでいいのか?」という違和感ゆめみ時代に感じた、裁量の変化と組織の拡大就職活動をしていた2000年代初頭、ベンチャーやインターンといった選択肢は限られており、情報も乏しかった。知っている企業、聞いたことのある名前から職場を選ぶ。そんな空気の中で、エンジニア職としてキャリアを始めた。新卒で入った会社では、上司や営業が持ってくる案件を受け取り、期日を守って納品する——そんな日々に追われていた。チームで何かを作り上げる感覚は心地よく、やりがいもあった。けれど、あるときふと思った。自分が作っているこのシステムは、いったいいくらで、誰がどうやって取ってきたのだろう、と。業務の“前工程”を知りたいという欲求が芽生えたのはその頃だった。週末に友人たちと集まり「なにか事業をやろう」と話しても、出てくるのはエンジニアとしての延長線にあるスキルばかり。誰に、何を、どう売るかがまったくわからなかった。経験しなければ何も見えない。そう思い、営業職への転職を決めた。これまで一度も触れたことのない世界だった。ネット業界に飛び込み、最終的には「株式会社ゆめみ」※ という、スマートフォンアプリやWebアプリ、クラウドシステムの開発を専門とするエンジニア集団に入った。当時や役員が取ってきた案件をエンジニアがまわす、という状態から、「脱役員営業」をミッションに、営業組織の立ち上げ、実際の営業活動、受注後の対応に駆け回ってきた。おかげで営業、ディレクション、PM、炎上案件の火消しまで、一通りの流れを体験した。受注から納品までの全工程を自分で担うことも増え、「あの頃知りたかった景色」は一通り見渡せるようになった。だが会社が成長するにつれ、自分の役割は変わっていった。規模が50名から100名を超える頃、組織は「個人の裁量」から「構造で回す」体制へと移行していった。任される範囲が狭まり、意思決定にも時間がかかるようになった。自分が動くより、他人の調整を求められる時間が増えていく。自分が最もパフォーマンスを出せていた「越境しながら場を動かす」役割が徐々に剥がされていった。その頃、2人目の子どもが生まれた。家庭の事情を言い訳にして変化を先延ばしにしながらも、「このままで本当にいいのか?」という違和感だけが確実に積もっていった。2. 行動を始めたのは「コンサルタント」という仕事を知ったから外部パートナーとの雑談で「SEOコンサル」として複数社と契約しながら働いている人がいた。業務委託で複数社と契約し、成果で評価され、柔軟な働き方をしている。そのスタイルに衝撃を受けた。「こういう働き方があるのか」と。自分にSEOの知識はなかったが、「この15年の経験でも、誰かの役に立てるのではないか」と初めて思えた瞬間だった。それまで転職のときにしかしてこなかった自己棚卸しを本格的にやってみた。経験してきたことを一つひとつ洗い出し、外部の誰に、どんな価値として提供できるかを考えた。自分の経験が商品になるかもしれない。そう思えるだけで、気持ちは少し前を向いた。3.会社と退職交渉、仕事を作るために「残り3ヶ月は週2有休」退職を申し出ると、社長は理解を示してくれた。「最後の3ヶ月、週2日分の有給を使って、副業してもいい」と言ってくれたのはありがたかった。背水の陣ではあるが、3ヶ月の猶予ができた。この間に、なんとか売上の目処を立てなければいけない。最初にやったのはExcelでの生活費と残高の整理だった。バーンレートもランウェイも知らなかったが、「あと何ヶ月、生活できるか」を数字で把握するだけでも、気持ちの浮き沈みが減っていった。次に、サービスメニューを作った。月1〜2回のMTGと資料作成で月数万円、システム開発会社向けの営業支援。自分が積み上げてきた経験を、そのままサービスにしただけだった。開発会社には営業が得意な人材が少ない。自分は営業として要件を詰め、エンジニアとして現場もわかる。営業と開発を橋渡しする経験なら、何度もしてきた。外部パートナーとの関係性をたどって声をかけると、「それ、お願いできる?」という反応が返ってきた。サービスになった瞬間だった。4. 副業を通じて見えた「自分の強み」副業として複数の案件を経験していく中で、少しずつ見えてきたものがあった。それは、自分の強みとは何かということだった。技術のある優秀な人は、周りにいくらでもいる。若くて、トレンドに敏感で、アウトプットの速い人も多い。そんな中で自分が頼られる理由を考えたとき、思い当たったのは、“事業会社の視点で話せる”ということだった。現場で見てきたもの、意思決定のプロセス、売上に直結する責任の重さ。それらは、15年間会社員として積み上げてきた体験の中に確かにあった。どこかのタイミングで、考え方が切り替わったように思う。「自分には何ができるか?」という問いではなく、「これまで何を積み重ねてきたか?」という問いに立ち返るようになった。技術だけでは勝てない。スピードでも若さでも勝てない。それでも声がかかるのは、染みついた視点や判断が求められていたからだった。当時の案件では、「正解を出すこと」よりも、状況を整理し、混乱を収めることに価値がある場面が多かった。誰かの焦りをなだめ、方向性を定め、責任の所在を曖昧にしないように言葉を選ぶ。そんなやりとりを何度も繰り返す中で、自分がやってきたことの意味が、少しずつ形になっていった気がする。自分の武器は何か?と改めて考えたとき、はっきり言えるのは、「発注側の論理」と「開発現場の現実」の両方を理解していることだった。たとえば、営業が急かしている一方で、開発側が動けない。よくあるすれ違いだ。そういう場面で、両者の言い分を並べ、ズレの正体を言語化するだけで、話が進むことがある。決して派手ではない。でも、ビジネスの現場では、こうした“橋渡し”がいつも求められている。気づけば、自分が見てきた景色そのものが、価値になっていた。それに気づいた頃から、ようやく、自信を持てるようになっていった。そして、週2から始めた副業は、3ヶ月後には完全な退職につながり、本格的にフリーランスとしての活動が始まった。5. 家族を養いながら、新しい一歩を踏み出すには当時、子どもは2人。家族がいる身として、勢いだけで飛び出すことはできなかった。独立はあくまで“自分の都合”だ。家庭の安定とは別の次元にある。だからこそ、自分でリスクを管理しなければならなかった。事業計画なんて立派なものじゃないけれど、「月にいくら稼げば暮らせるのか」「何ヶ月分の資金が残っているのか」その計算だけは毎日Excelと向き合って繰り返していた。覚悟、というより、静かに整理していく作業だったと思う。不安がなくなったわけじゃない。でも、「やることが決まっている」だけで、気持ちは落ち着いた。「覚悟を決める」と言うと聞こえはいいけれど、家庭を持つ人間としては、むしろ「算段を立てる」ことの方がよほど大事だった。おわりに──「一歩踏み出したいけど不安」なあなたへ独立を目指す人には、キラキラした理想を描くタイプと、黙って情報を集め続けるタイプの両方がいると思う。自分はどちらかといえば後者だった。判断に時間がかかる分、リスクを見落としたくなかった。それでも、実際に動き出してみると、世界の見え方は変わった。誰かに与えられた選択肢ではなく、自分の意思で道を選び、実行する。その積み重ねの中に、確かに「自分の仕事」が生まれていった。必要なのは、派手なスタートダッシュではなく、小さな現実の把握だと思っている。数字を出して、計画を立てて、できる範囲でまずやってみる。そうして得られる感触こそが、次の一歩を生むエネルギーになる。※2025年5月8日現在「株式会社ゆめみ」は、アクセンチュアに加わることを発表しました。さらに大きな開発組織として進化を続けていかれることと思います。私たちは、週1からでも関われる「フリーランス案件」を常時集めてきています。また、今後フリーランスのコミュニティも作っていく予定です。もし、あなたが一歩を踏み出す場所を探しているなら、ぜひ一度問い合わせをしてきてください。お話をしましょう。